■ B-29 墜落現場 ■
貴重な写真も残されていた。当時の新聞(中部日本新聞)に
掲載された物。
この事件を身近に体験した方の手紙も掲示されている。
以下、その全文。(文の重複、誤字、文法の誤りと思われる部分もありますが、原文のまま掲載します)
残しておきたい私の記憶 B29墜落
昭和20年は私たちが小学校に入学した年でした。正月3日で皆さん家にいたが
部落におるのは年寄り、女子供の方しかいませんでした。名古屋で空襲が始まると
西の空が赤くなり爆風で地震のようで建具や家がガタガタとひどく揺れた。
中にはガラス戸のガラスが割れた所もあった。
夜になると家の中で電灯を黒いふくろで包み、光が外に出ないようにして
テイブルの上だけ明るくして、そのほかは真っ暗にして外に光が出ないようにして過ごして居た。
昭和20年1月3日はよく晴れていた。正月で家の中に居たが空襲が始まりB29が
名古屋の上空で爆撃しているのが見えた。その中の1機が火を吹き向きを変えて
ふらふらしながら飛んできた。始めはどの当たりに落ちるかと見ていたが、だんだん大きく
なって来て真っ赤に火を噴いて頭の上に向かって来た。逃げても逃げても自分に向いて来て
逃げ場がなく家の中に飛び込んだ人、いも穴に逃げ込んだ人がいた。
頭の上を火の玉のように真っ赤になって通りすぎた。とたんに爆発の音がして
真っ黒な煙と火が上がった。見るとすぐ裏山であった。
見に行くと大きな飛行機の後ろが見えた。機関銃の玉か何かが大きな音をたて
パチパチとはぜていた。間もなくすると兵隊さんがやって来た。そして大勢の兵隊さんが
残骸のかたづけにやってきた。中からアメリカの兵隊さんの焼死体が出された。
次々と真っ黒になった死体が並べられた。7人の兵隊さんが出ていた。
1人はラッカサンで3キロほど離れた六所山にラッカサンで降り助かった。
このとき部落は7戸の村で兵隊さんたちを7戸の家にそれぞれ5〜6人に別れて
泊まってかたづけをされた。飛行機の中にあった缶詰など持って来てくださった。
当時は食べる物が無く、缶詰などいつも食べられなかったのでとても嬉しかった。
部落の方は兵隊さんの監視の中で村の山の火葬場で部落の人達で火葬した。
昼中焼いて夜になると火が見えるといい砂をかけてけし、朝になると掘り起こしては焼いて
10日くらいかけて焼いた。お骨はかますに入れて兵隊さんがどこかへ持っていかれた。
このとき大勢の人が見に来た。遠くは西加茂郡 三好、名古屋の方も見にこられた。
そして終戦になり役場の方とアメリカの兵隊さんが調べに来たので部落の
女、子供は何かされると思い皆な隠れた。そして区長さんともう一人の方が連れて行かれた。
また部落の人達に死体を足でけった方がいたとか、色々きかれて驚きました。
調べに役場に連れて行かれた方が殺されるのではないかとしんぱいしていたが
無事に帰ってこられたので皆ほっとした。日本は負けてアメリカ兵が来て
女ははずかしめを受け手男子供は殺されるといはれていたので皆さん震えていたが
アメリカの方は皆さんとても礼儀正しい人でした。
自分は戦争を経験していないし、親や祖父母からも戦時中の話を聞く機会が極めて少なかった。
住んでいる町が名古屋から少し離れているせいもあって空襲で大きな被害が出たという認識もない。
周辺地域で基地があった近くは悲惨な状況だったと聞いた事があるくらいだ。
そんな自分が、このレポートを通し、考えさせられた事は多くあるが、その大部分が戦争の是非についてでなく
自分自身についてだった。過去に起こった事実と現地の状況だけを淡々と書いた。
人それぞれ現場で感じる事は大きく違うと思う。
自分について見つめ直す機会となる出来事だった。大きな戦争のほんのひとかけらで
あったかもしれない。しかし、そのひとかけらを残そうとした人達に感謝したい。
忘れてはならない。