■依佐美送信所 ■
明治以来我が国の対外通信は、欧米の電信会社の所有する海底電線によらなければならず
このような対外通信施設の不備は、外交上・通商上の不利益を我が国にもたらした。
こうした見地から、無線通信による国際通信の整備が提唱され、大正14年3月帝国議会において
「日本無線株式会社法」が成立し、これに基づく新会社が世界の主要地域と
直接無線通信のできる施設を建設することとなり、対欧通信所はここ依佐美(当時愛知県碧海郡依佐美村)に
受信所は四日市郊外(同三重県三重郡海蔵村)に設けられることとなった。
依佐美通信所は大電力の長波送信所として設計され、昭和2年7月に着工、4年3月に完成した。
送信所にはドイツ製テレフンケン式長波送信装置と高さ250メートルの当時としては
東洋一の高さを誇る鉄塔8基に懸架した壮大なアンテナが設置された。
空中線電力700キロワットは長波としては世界最大のものであった。
この8基の鉄塔は2列(間隔500メートル)に4基ずつ(間隔480メートル)設置され
相対する鉄塔間に張られた4本の架線に逆L型アンテナと称される長さ約2000メートル16条のアンテナ線が吊り下げられた。
接地には多重接地法が採用され、アンテナの下の全域に埋設された。
鉄塔と送信所建設に要した資材の量は7万トン。これを運搬するため三河鉄道小垣江駅から
建設地付近まで臨時に専用引込線が敷設された。
昭和4年3月すべての工事が完成、4月18日盛大に開所式が行われ、我が国とヨーロッパ間の直通通信が開始された。
これは外交上及び通商上の画期的躍進であった。
第二次世界対戦中、長波の送信施設は専ら日本海軍の運用に委ねられ終戦に至ったが
昭和27年7月から米軍に提供され、運用が再開された。
平成6年8月東西冷戦の終えんにより全面返還となり、平成9年3月に、アンテナ、鉄塔等の撤去を完了した。
こうして70年にわたって三河平野にそびえ立ち、地元の象徴として親しまれてきた鉄塔もその使命を終え姿を消した。
ここに往時の雄姿を留めるものとして、実物を10分の1の高さ25メートルに短縮し保存する。
刈谷市